本来城こそ戦場であるのだから、滝だけでなくこの城一帯で"出なければ"おかしいとは思うが、小心者の私にとってはどっちにしても気が重い登城になった。
JR中央線高尾駅からバスに乗って「霊園前」で下りて、そこからずっと徒歩で歩いていくと八王子城はある。

が、その前にその脇の道を入っていくと北条氏照の墓がある。本来は自害した小田原に墓があるのだが、百回忌の際にここにも作られた様だ。その両脇には、八王子城で城将として討ち死にした氏照配下の武将中山勘解由家範とその孫で水戸藩中山備前守信治の墓もある。家範の勇猛さは豊臣軍にも轟いており、八王子城の攻防でも攻め手の前田利家は家範に降伏勧告を出してしていたが、これを拒み続け最後は妻と一緒に自刃したと言う。
敗戦の将の子孫は断絶されてしまう事が多いが、徳川家康が家範の勇猛ぶりを称えて息子信吉を召抱え、その子信治は水戸藩の家老にまでなった。そして、その先には名も無き者の墓がそのまま雑然と残っているというのが個人的には物悲しい感じがした。さて八王子城に向かう。

とにかく八王子城は急な坂の続く山城。山城だから坂があるのは当然といえば当然なのだが、気が滅入る。。。最初に見えるのは金子丸。金子三郎左衛門家重が守っていたと言われる。ここは、尾根をひな壇の様に整備して、敵の守備に備えたという。今では梅、椿、紅葉が各段ごとに植えられており、季節ごとにその美しさを楽しめる。

金子丸から本丸手前にある八王子神社まで30分。普通に歩くだけなら余裕だが、やはり山はハンパない。ゴツゴツした砂岩むき出しの坂道を登る。

見晴らしのいいポイントを過ぎると八王子神社がある。八王子権現を祀った所以から氏照が八王子城と名づけ、この地域一帯は八王子と呼ばれる事になった。八王子神社の左手には松木曲輪がある。この曲輪は先ほどの中山家範が守ったといわれる場所。八王子城の攻防では豊臣軍1万5000千人と、中山家範や狩野一庵の武将に加え一帯の農民らを動員しても1000人程度の守備側では、さすがに多勢に無勢で家範の奮戦空しく八王子城は落とされてしまった。

松木曲輪から八王子神社を挟んで反対側にあるのが、小宮曲輪。ここは狩野一庵が守ったといわれる曲輪で、ここを上杉景勝軍が奇襲して落とした事で八王子城合戦の趨勢は決まってしまったと言える。それにしても小宮曲輪は何とも寂しい場所。草木が鬱蒼と茂る場所を過ぎていかなければ確実に見落としてしまう。

そして八王子神社の奥に本丸跡があるが、ここは狭く大きな建物は無かったと思われる。実際に氏照が政務を行ったのは麓の御主殿であり、この本丸は戦闘時に指揮する為の場所でしかなかったと思う。

さて、今度は山道を下る。登りがきつければ下りは楽。スイスイ下っていくが、それでも往復で約1時間近く。445メートルの深沢山はかなり足腰に来る。ハイキング以上登山未満という感じ。アンダーアーマーを着て来て良かったとかなり思った。

麓に下りる前にアシダ曲輪にある観音堂を拝見。そして、石仏の道を回ってから御主殿跡に。ここは氏照が政務を執り行った場所で、発掘調査ではベネチア産レースガラス器などを初めとして約7万点もの遺物が見つかっている。

この御主殿は東側を強固に作ってあり虎口は出来る限り当時の石垣や石畳を使っているという。また冠木門も当時をイメージして作られている。この虎口には門の礎石も見つかっており、大きな門があった事もわかっている。また当時のままの石垣もある。

この虎口に通ずる橋が架けられている。これが曳橋である。橋脚しか見つかっていない為に、この橋のデザイン自体はイメージでしかない。架かっている場所も当時とは違うと考えられている。

そして、噂の滝である。御主殿の滝と呼ばれるこの滝は、今は水量が大分減ってしまい、滝と呼べるものではないのかもしれないが、その傍に供養の為の石碑などが立っていて、当時が偲ばれる。

帰りは古道(当時なかった道を新道と呼び、御主殿を沿う様に通っている)を歩いて戻り、大手門の跡付近(発掘調査では大手門を確認したが今は埋め戻されている)を通り八王子城管理棟に戻ってきた。
八王子城を歩いて再認識したのは、城は何を言っても戦場だったという事。この山城はハードなものだったがたった一日で落城している。御主殿の滝の伝説や中山家範の話はどれもそうだが、ここは戦場だった。そこからは目を背けられない現実だと思う。




