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2010年11月07日

吉野ヶ里遺跡 その1

自分が中学生になる時に、歴史で一番ホットな話題と言ったら吉野ヶ里遺跡の発掘だった。邪馬台国がどこにあったのかというのは、歴史研究家のみならずちょっとした歴史好きであっても皆気にする話題でもあった。私が生まれるよりも前から畿内説、九州説の2つが大きくあり、吉野ヶ里遺跡は九州説にとって大きな論拠を得たと思われた。
入学した中学での最初のテストは今でも覚えている。解答用紙と魏志倭人伝を訳した紙が配られ、「邪馬台国はどこにあったと思うか、自分で仮説を立てて書きなさい」という、非常にユニークなものでワクワクした記憶がある。歴史というと単なる穴埋めが多いが、どうしてそうなったのかを自分なりに考える力を養ってくれたのがこの時期の歴史の時間だった。(カトケン先生ありがとうございます。)

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さてその吉野ヶ里に初めて行って来た。私は九州説派でも畿内説派でもない。でも、そういう論争になるだけの大きな遺跡を訪れるとあって、感慨深い気持ちがあった。吉野ヶ里公園駅を降りると、北口はコスモスとヒマワリが一緒に咲いている。不思議な気分である。そこを抜けて西に向かって歩くと見えてくるのが吉野ヶ里歴史公園。遺跡も今は整備されて公園になっている。

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入場券を買って橋を越えると、門が見えてくる。まさしく「クニ」に入る演出がされている。その門の裏にあるのは「逆茂木」と呼ばれる敵の侵入を防ぐ役割の杭が無数に突き刺さっている。環濠や土塁はもうこの時代には既にあったようだ。

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その逆茂木のある門を過ぎて右に折れていくと、南内郭が見えてくる。昔王や支配者層が住んでいた場所である。昔から権力者層とそれ以外では住む場所は厳密に分かれていた事がわかる。再現されているが、物見櫓がありそこから南側を見渡すと良く見える。

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その他竪穴式住居も再現。実は再現したものでも入るのは初めてだったので、あの低い住居でどうやって暮らしていたのだろうか疑問だったのだが、一段地面を掘っていたんだね。

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北側に行く前に、「倉と市」エリアに寄る。ここは倉庫群がある。この時代は食料は拠点に集められ、それを分配して生活する習慣があったのだろう。そして、市も開かれていたと推測される。当時貨幣はないから、物々交換だと思われる。この辺りは人気もあまりなく、不気味に倉庫が漂うという寂しい場所。これより西側は遺跡エリアではなく「遊びの原」と呼ばれるレジャースペースになるのでストップ。

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吉野ヶ里公園は単純に遺跡の場所だけではなく公園と整備されており、東側は遺跡エリア西側は公園エリアとなっている。この日も遊びの原では親子で参加するイベントが行われていた。

さて、これからは吉野ヶ里公園の北側に進んでいく。ガイドマップによると、北側は住居よりもまつりごとの色合いが濃い場所が並んでいる。まつりごと=政と呼ばれる様に、昔は祭事が政治を行っていた。どんな場所なのか楽しみである。

その2に続く
posted by おかき at 06:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 国内旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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