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2010年11月13日

吉野ヶ里遺跡 その2

南内郭から北に進んでいくと「中のムラ」と呼ばれる場所にたどり着く。ここは、南内郭と同様に竪穴式住居が並ぶがやや様相は異なる。ここでは祭りの為の道具を作る場所である。吉野ヶ里公園の北側に進むに従って長閑な場所になっていく。個人的には整備されているより、そうした場所の方がその当時をイメージしやすい。(そもそもそのイメージが合っているかは別の問題ではあるが)

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さて吉野ヶ里公園の北側の一番の見ものは「北内郭」である。思っていたよりも豪華な城郭風な建物が聳え立つ。イメージして立てたのか、それとも当時の遺構が見つかったのかはわからないが、1800年近く前に3階建てのこんな建築物があったとしたらそれは本当に凄い。

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中では、巫女が神のお告げを聞いている風なジオラマがあったが、無音で階段を上がると一瞬だが本物の様に見えて不気味だった。卑弥呼をイメージしたのかどうかはともかく、当時は神のお告げで政治って決まっていたんだなぁと。データもロジックもないから、何か大義名分が必要だったのだろう。

その北内郭の北側には、甕棺墓列が並んでいる。これ一般の人の墓である。地面がところどころ凹凸があるのは、それが埋められているという表現なのだろう。この時代は火葬ではなく土葬だったので、こうした埋葬方法になったのだろう。穴を掘り、甕を置き、中に人を入れて封をし、上から盛り土をする。これは弥生時代の九州地方にしかないという特徴の様だ。この甕には人だけではなく、一緒に埋葬品も入れており腕輪などもこの甕から見つかっている。この墓は単発で存在していることは少なく、墓列と呼ばれている様に列の様にして固まって存在しているらしい。当時にも流行があり、埋める角度などで年代がわかるらしい。

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ここも再現だと思うが、それにしても墓がいくつも同時に並んでいると思うと結構不気味な気分である。というか、小心者。

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さて、吉野ヶ里公園で今一般人が行ける一番北にあるのは北墳丘墓。これ自体は歴代の王の墓であるが、中は博物館の様になっておりその状況がよくわかる。とはいえ、変に色づけされるとまた不気味。。。インディ・ジョーンズのクリスタルスカルを思い出していた。

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園内を走るバスに乗り遅れてしまったので、歩いて園内の元来た道を戻り吉野ヶ里公園見学は終了。
最後は邪馬台国がどこにあるかなんてどうでもよくなっていて、こういうものが1800年もの昔にあった事が単純に凄いなぁと感じた。20年以上前にベッドタウンの開発の為に調査をした時に遺跡が出てきたのだけど、当初はこんな風になるとは誰も思ってなかっただろうなぁ。
今では弥生時代を代表する遺跡になった。登呂遺跡、三内丸山遺跡も行って見たくなった。大森貝塚はすぐに行けるか。
こおうなると纒向遺跡にも行ってみたいが、吉野ヶ里と異なり公開をしていないみたいなので当分先だろう。とはいえ、吉野ヶ里がある中で纒向遺跡もあるよって教えてくれたカトケン先生は偉いなぁ。ミーハーなら吉野ヶ里って一押しするのに。今の自分の歴史好きはあの先生があったから成り立っている部分は大きいと思う。また今度はどこに行こうか。
posted by おかき at 10:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 国内旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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