2007年11月27日

昨日の敵は、今日の友、そして明日は 坂井洋平

2005年の横浜FCの新戦力の顔ぶれはどれも多彩なものだった。
トリニダード・トバゴ代表のシルビオ、JSCから入団した高橋・日比、
元横浜Fの佐藤、クラブ史上初めてとなるユース出身の大槻らが
いる中で一際異彩を放ったのが、坂井だった。
18歳の時にACLに出場していた事よりも、同じ横浜に本拠地を置く
横浜F・マリノスユース出身の経歴に注目が集まる。



横浜FCと横浜F・マリノスの関係を知っているのか、初めそう思った。
労働の自由という言葉があるから、彼がどこのクラブを選択するかは
自由である。それにしても、何でマリノスのユースなんだ、優秀な
ユースを持つチームなら他にもあるのに。本当にそう思った。
彼に会うまでは。

彼に最初に会ったのは、しんよこFPでの練習だったと思う。
想像していたよりも細身でガツガツしていない。「俺はマリノスだ」
的なオーラが出ているのかと思ったがそうじゃなく、静かに
落ち着きはらってサポーターに対応しているのを見て、自分の浅はかな
推測を後悔したものだ。



2005年は激動の年だった。シーズン初頭に掲げられた育成主体の
プランの下で経験を積み、ゆくゆくは横浜FCの主力選手になる筈が、
大株主の登場によりベテラン選手重視のチーム構想に変化した事で
出場は3試合で198分に限られてしまった。それでもその左足には
希望があった。時にはFKも蹴る正確性と物怖じしない性格は、
翌年への胎動だと思えた。
私がまだトリニダード・トバゴにいた2005年京都戦で小野信義に
代わって出場したと聞いた時は、世代交代を感じたのだが。。。

2006年。一気に強化されたメンバーの中で彼はポジションを
勝ち取るどころか、多くの試合でベンチにも入れなかった。
彼が主戦場とする左サイドあるいはボランチでは、左に
ルイス・アウグストが君臨し、ボランチには山口と鄭という不動の
コンビがいて、吉野や本職がボランチの内田もおり出場は叶わず、
ほぼ多くの試合で出場は、試合を終わらせるストッパーとして
わずかな時間に限られた。



だがその役目も重要で、大半の試合は1点差で勝っている時。
時間を経過させるだけでなく、相手が果敢に攻めてくるのを
上手く往なして落ち着かせる事を、19才の若者に求めているという
事自体、彼に高い評価を与えていた事の現われでもある。

そして、A契約に至らなければならない大事な3年目の2007年。
彼は相当強い気持ちで臨んでいただろう。寡黙な彼が自分から
強いメッセージを発する事はないが、練習にいくと以前の様な
あどけない表情はなく、ひたむきにボールを追う姿が目に
飛び込んでくる。降格の危機に直面したチームに貢献したい。
それは、彼が生き残る為の戦いであった。



だが、横浜FCの成績は下降線を辿ったまま浮上する事なく、
高木監督は解任され、ジュリオレアル体制になっても彼の
居場所はなかった。わずかに、11月新潟戦のわずか「1分」の
出場に留まっている。

そして待っていたのは戦力外通告という現実。数字だけを見れば
厳しいものがあったと私は思っている。彼の左足から繰り出される
パスは非凡だったが、フィジカル面に難があると映った。
テクニックで試合を落ち着かせる事が出来ても、中々機能する
攻撃を形として描けなかった。

A契約にはならなかったが、彼の技術レベルは高いところにある。
まだ21歳でしかない。大学を経由してJリーガーになったお手本も
横浜FCにはいる。JFLから這い上がった者もJにはいる。
もちろん来年ライバルとして横浜FCと戦っても不思議じゃない。
道は一つじゃない。それはサッカーも人生も同じ。
横浜F・マリノスユースから横浜FCへという異色の経歴を持つ
坂井が、今後どんなサッカー人生を歩んでも驚かない。
きっとまたその左足で未来を切り拓いたと思っているから。
posted by おかき at 00:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 横浜FC選手列伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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