2008年01月24日

「V」 平本一樹

彼が横浜を離れるリリースが出たが、誰も驚かなかったに違いない。
「自分には緑の血が流れている」と言ったとか言っていないとか。
そういう選手が、断腸の思いでヴェルディを一時的に離れ、
武者修行の為に横浜に来たのを知っていたからだ。正直、横浜の
Playerというより、横浜へのVisitorという雰囲気があった。
でも、横浜のサポーターはそれでも彼を受け入れた。
チームの状況がその位逼迫していたからだ。



4-1-4-1で臨んだシーズンだったが、構想にあった久保は故障を抱えて
5月に戦線離脱をしてしまう。また、彼とはタイプが異なる選手は
難波やシウバらがいたが、高木監督の求める「1」のオプションで
しかなく、核になるべき選手が必要だった。

緑の血を持つ者が横浜にやってくる。私はあるシーンを思い浮かべて
いた。「V」というテレビドラマがあったのをご存知だろうか。
地球に人の姿をした宇宙人がやってきて、地球人を食料にしようとする
1984年に大ヒットしたテレビドラマである。このドラマで、初めて
宇宙人が地球にやってきた時、アメリカの上空に大きな円盤が浮かび、
人々は皆この先どうなるのか不安と好奇の思いで眺めていたシーン。
緑の高いプライドを持った選手が、横浜の守備的な戦術に馴染むのか、
皆歓迎はしたが彼が登場するまでは、複雑な気持ちだった。

しかし、その不安を彼はプレーで吹き飛ばす。合流したばかりで
全くチームにフィットしていない中で途中出場した大宮戦だったが、
後半からその最大の武器であるドリブルで単騎敵陣で勝負を仕掛けた。
孤立無援だったが、可能性を感じた。



翌週の三ツ沢では得点にこそ絡まなかったが、前線から守備も頑張り
勝利に貢献。その次のガンバ戦こそ敗れはしたが、PKを決めて
FWとして一息入った形だった。
そして、磐田戦。開始早々に日本代表GK・川口の頭を抜く技ありの
ループシュートを決めて、剛ばかりではない器用な一面も見せた。
久保の代役どころか、新エースが生まれると誰もが感じ始めていた。
ところが、この試合で逆転負けを喫してしまった影響が彼にも波及
したのだろうか、そこから全く歯車がかみ合わなくなった。
新潟戦、柏戦、千葉戦と大きな見せ場もなく敗戦。

長期間の合宿から明けて戦った横浜ダービーは散々なものだった。
菅野のミスによる失点から始まり計8失点。熱狂的な横浜FCサポでも
試合の途中で家路に付きたくなる試合だった。
だからこそ、この試合相手のミスから1点返した平本の心中を
察したくなる。きっと彼はきっとこう思っていたに違いない。

「こんなはずじゃない。」




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2008年01月18日

ルーズソックス 奥大介

現代社会においてトレンドを作り出すのは,もはやメディア
メーカーではなく、女子高生である。最近では彼女達が企業の
マーケティングや商品開発に意見を言う事も多いと言う。その彼女達が
20世紀最後に生み出した最大のヒットが「ルーズソックス」である。
靴下を膝下まで伸ばし切らずルーズにシワを出して履くのがそれだ。
最初は単に靴下を下げるだけだったが、それに呼応する様に例えば
靴下が落ちない為のノリや、初めから何本かゴムを抜いた靴下等続々と
新しい商品が生まれルーズソックスは女子高生の代名詞にもなった。



そのルーズソックスをサッカーに取り入れたのが奥大介その人である。
シンガード(すね当て)が見えていても、主審から注意されても
お構いなし。サッカー界でルーズソックスと言えば奥の代名詞だった。
しかしルーズなのはソックスだけであり、プレーでは豊富な運動量と
正確なパスで黄金期の磐田を支えた。もちろんそれだけの選手は、
間もなく日本代表になりアジアカップの優勝に貢献。日韓で行われた
ワールドカップの代表にこそ選出されなかったが、その悔しさを
晴らすかの様に移籍したFマリノスでは2003、04年と連覇を達成。
30歳を前にして再び輝いた。



だがケガや若手の台頭でポジションを失い、06年末には戦力外通告を
しながら補強が進まないとみるや、再度年俸をさげて交渉した
マリノスのフロントに不信感を抱きマリノス離脱を決め、まるで当て
つけの様に同じ横浜を本拠地とする横浜FCに移籍する。

J1に昇格したばかりの横浜FCは前年度の昇格の立役者の城、アレモン、
ルイスを立て続けに失い、攻撃力不足が懸念されていた。奥の加入は、
ビデオだけで見る外国人などより遙かに計算できた。

その後マリノスで同じく栄冠を手にした元日本代表の久保が加入。
「見なくても(どこにパスが来るか)わかる」とまで言わせる
相思相愛のFWを獲得できたのはチームに取っても彼自身に取っても
いろんな意味でギャフンと言わせるチャンスだった。



開幕戦でその相棒の久保は日本中を驚かせるシュートを決めたが、
当の奥は輝く場面は殆どなかった。だが、次節では自分を解雇した
クラブを見返す活躍を見せて横浜ダービーの勝利に貢献。見せ場は
少なかったが、「見返す」その気持ちだけで反撃をしのぎきった。

だが、ここから彼を待っていたのは苦難だった。続く川崎戦では
為すすべなく大敗を喫し、ナビスコカップの磐田戦こそ自身の
ゴールでチームの勝利を導いたが、それ以降は出場こそすれ
チャンスも中々作れないまま連敗を重ねた。
指摘される運動量の少なさや、キレの無さは本当にたった3年前に
Jリーグで優勝の歓喜を味わっていた男のものなのか。

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2008年01月10日

ゴールネットを揺らすのはあなた 和田拓三

2007年の横浜FCは彼のゴールによって幕が開いたといっても過言では
ない。開幕の浦和戦ではオウンゴールだけではない。後半も残り10分に
なろうかというところで、和田の中途半端なクリアを浦和・永井に
拾われて痛恨の敗戦は未だに記憶に新しい。
「こんなはずでは。。。」そう思っていたのは彼だけではないはずだ。



2007年シーズンの開幕前にレンタル移籍での横浜FC加入が決まった時、
彼は二つの思いがあった。一つはレンタル移籍には様々事情はあるが、
清水の現有戦力とは考えられていない事。プロ選手、しかも大卒の
選手としては非常に屈辱的な事だった。
だが、もう一つは出場機会があるJ1昇格チーム、清水と対戦すれば、
その実力を大きくアピールする事が出来る。しかも、横浜に呼んで
くれたのは、日大時代コーチを務めていた恩師・高木琢也監督。

その期待を持って臨んだシーズンだったが、開幕の浦和戦で躓くと
横浜ダービーこそ勝利したもののリーグ戦は勝利が遠かった。

正面で対峙する相手には強かったが、自分から積極的に飛び込んで
しまう悪い癖があり、守備面の強化という観点からすると移籍加入は
横浜FCにとって必ずしも良い補強とはいえなかった。



その悪い流れを引き摺ったまま迎えた清水戦。彼は再びゴールを
アシスト。FKに競った際に相手選手を押し込んでオウンゴールを誘発。
リプレイを見ると反則スレスレのもので、古巣相手に後味が悪かった。

左右のサイドバックをこなせるユーティリティがあり、また昇格の
立役者だった智吉や中島の不調の間はポジションがあった。
ただ、和田への評価が思ったよりも悪かったのか、横浜FCは途中から
山田卓也を獲得した辺りから右サイドバックでの出場は減り始め、
中島の代わりに左サイドバックを努めたりしたが、チームとして
成績が上向く事はなかった。

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posted by おかき at 07:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 横浜FC選手列伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月09日

良い子 悪い子 ナカジな子 中島崇典

彼にその秘密を聞いた事がある。「自分も教えて欲しい位ですよ。
試合が始まるじゃないですか。で最初にボールを蹴った時に"いける"と
思うこともあったり、"ダメかな"と思ったり。わからないです。」
秘密とは、横浜FCのサポーターなら誰でも知っている中島の二面性。
これを「良いナカジ」「悪いナカジ」と言って皆は愛した。



その原因は本人にもわからないのだが、最初のプレーでその試合で良いプレーができるのかできないのかわかるのも彼らしいところ。
毎試合コロコロ変わるのは、調子だけでなく髪型もだが。



その中島は、2004年湘南から移籍。持ち味の攻撃的なプレーが評価され
すぐにスタメンに定着した。一時智吉が左SBで、ナカジが左MFという
起用もあったが、逆にバランスが悪くなり数戦で放棄されている。



中島の魅力は何よりも攻撃的なサイドバックであるという事。積極的に
オーバーラップをして鋭いクロスを上げ、チームに貢献してきた。
また、サイドバックという守備面では簡単に抜かれるシーンもあるが、
「良いナカジ」の時は気持ちで技術面をカバーしピンチをチャンスに
変えてきた。

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posted by おかき at 06:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 横浜FC選手列伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月08日

室井さん、偉くなっちゃうんですね 室井市衛

横浜FCに彼がやってきた時、相当な興奮があった。幼い時に見た
鹿島での活躍は、非常に強烈なインパクトとして私の記憶の中に
残っていたからだ。地元の浦和の為に志願して移籍したという逸話も
凄いが、私にとっては「鹿島の室井」というイメージが離れなかった。



しかし、彼が横浜に残した結果は無残なものでしかなかった。
何度も繰り返すケガ、調子が良くなって出場する練習試合でも
大学生相手の1対1を止められず後ろから引っ張って倒す始末。
もうあの頃の室井はそこにはいないんだと感じた。



2006年の天皇杯は、それをさらけ出す格好の舞台になってしまった。
関西リーグのバンディオンセ神戸のボール回しに右往左往し、
スピードについていけなかったばかりか、屈辱の敗戦。神戸が
元Jリーガーを何人も擁していた事を加味しても言い逃れできない、
サポーターの誰もが失望する内容だった。

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posted by おかき at 04:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 横浜FC選手列伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月31日

早いのか遅いのか カタタウ

12/2日産スタジアムアウェイの地を真っ赤に染めたサポーター
そこで信じられない光景を目の当たりにした事だろう。最下位を
独走し、既にJ2降格が決まっている横浜FCに圧倒的に押される浦和
その中心にあったのは右サイドを蹂躙したカタタウ。



4-5-1の右サイドに張ってスピードで突破を図る彼を、誰も止められ
なかった。浦和・ネネは常に後手を踏まされ、後半開始には交代させ
られる始末。横浜FCの出来が2007年で一番なら、カタタウも一番。
得点こそ左サイドに流れた三浦知からのものだったが、チャンス自体は
圧倒的に右サイドを経由していた。後半負傷の影響もあって交代
したが、その評価は高く来年の契約を要望する者もいたに違いない。



だが、カタタウのシーズン全体を通しての評価は高いものとは言え
なかった。残留の為に途中加入したにも関わらず、残留という結果は
おろか、得点すらアシストすら挙げる事もできなかった。

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posted by おかき at 11:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 横浜FC選手列伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月30日

帰る場所 西山貴永

10/7の川崎戦は勝負以外にも見所があった。それはOBと芸能人
余興ではなく、川崎からレンタルで横浜FCに来ている西山のプレーだ。
横浜FCの一員であっても川崎サポは西山の名前がコールされると
拍手で迎えた。アウェイのサポがホーム側の選手を拍手で迎える事は
非常に稀であるが、それだけ川崎のサポーターにも頑張って欲しい
という思いがあったのだろう。



そもそも西山の加入は不思議だった。このサイドにいるのはチームで
アシスト王の滝澤。そこにテコを入れる前にする事があるだろうと
思っていたが、玉乃が千葉戦でドリブルを仕掛けた様に、途中で
出てくる選手に求められたのは「突破」。それが横浜には必要だった。
その視点から選手を探した時に、川崎で出場機会がなかった西山が
ピックアップされたと思った。

その彼は、加入直後の練習試合でもわずかな出場時間だったが、
鋭い突破を見せて、リーグ戦での活躍が予想されたが、アジアカップに
よる中断期間を終えて再開したJ1では、西山は攻撃の最後の切り札と
して4試合に名を連ねたが、結果を残せず。

そうしている間に呼んでくれた高木監督は解任され、ジュリオレアル
新監督になってそのポジションを失った。その時の心境を彼は
自身のブログで「今の状況はふがいないというか、情けない」と
告白していたが、それでもチームはシーズンを戦わなくてはなら
ない。試合は待ってくれないのである。



練習試合でミスをして得点を決められない日もあったが、ジュリオ
レアル監督にアピールを続けて掴んだ出場は磐田戦。そして、
その次の古巣・川崎戦では後半からピッチに登場。本職の左サイドでは
なかったが右サイドで果敢に勝負を挑み、切れ込んで放ったシュートは
川崎・川島にセーブされたが、埋もれていない事を証明した。

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2007年12月29日

しるし 菅野孝憲

12/28夜雨降る中、急に口笛が吹きたくなって、たった一人で傘も
差さずに仕事場を出て口笛を吹いた。何気なく口をついて出てきた曲は
ミスターチルドレン「しるし」。でも愛の歌であるこの曲が出てきた
のは、どうしてだろう。それはきっと自分の中で、その対象が
菅野だって事に気が付いたから。その愛の強さを奏でれば奏でる程、
どうしてだろうか菅野との別れを確信していった。



「どんな言葉を選んでもどこか嘘っぽい
左脳に書いた手紙ぐしゃぐしゃに丸めて捨てる」


どんな言葉を言えば伝わるのだろう。この思い。街の片隅で口笛を
吹く事しか出来ない自分は悲しい旋律を奏で続けるしかなかった。

「心の声は君に届くのかな? 沈黙の歌に乗って...」

彼自身の言葉で語られた横浜FCにおける最初で最後のブログ。
城の時とは違う、先にある大きな未来を描いて真っ直ぐ立つ若者の
素直な言葉が胸に突き刺さる。

菅野は最初から横浜サポーターの噂になった。当時横浜FCには水原、
吉田といったベテランがおり、それに次ぐ第3GKだろうというのが
東京Vユース出身のGK菅野への評価になるはずだった。しかし、
練習に行った者が皆口を揃えて「菅野は違う。」と早い段階での
スタメンを予想した。宝箱の素晴らしい中身を垣間見た様な、誰にも
話せない自分だけのワクワク感があった。菅野は当時を振り返って
「城さんのシュートは触ることもできなかった」と謙遜しているが、
城は「菅野には大きな才能がある」と18歳のルーキーを評価した。



そして入団からたった3ヶ月で大敗を繰り返すチーム事情からチャンス
を掴むとスタメンに定着。当初はその上背のなさから「空中戦に弱い」
といった声も聞かれたが、それを払拭する活躍を見せた。何よりも鋭い
瞬発力でシュートを止め、正確なキックは攻撃の起点にもなった。



年々その活躍の光は輝きを増し、「菅野劇場」なる言葉も生まれた。
ブーイングにも屈しないどころか、相手チームのゴール裏を煽る
ふてぶてしい態度、警告スレスレの時間稼ぎは相手に精神的な
ダメージを与えた。

その才能が正当に評価されたのは2006年。770分の無失点記録を樹立し
J2優勝に貢献。特に放たれたシュートの一つ一つの場面を覚えており、
その時に何をしたのか、何をすべきだったのか、何が出来たのか、
フィールドでのキャラクタとは対照的に、自分を冷静に分析している
姿に、プレー面だけではない成長を感じ取れた。

そして2007年。チームは序盤から最下位に沈み、Jリーグ最速記録で
J2降格が決定。大量失点を繰り返し連敗を重ねるチームにあって、
菅野は一人その実力を見せ続けシーズン終了後には新人王を獲得。
最下位のチームの選手が新人王を獲得するのは異例の事だった。



そんな選手を他のクラブが放っておくはずが無く、J1昇格戦線で
覇を競った柏から正式なオファーが届き、菅野は移籍を決断をした。
プロサッカー選手として成長の為に、「わがまま」を貫いたのだ。

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posted by おかき at 10:15| Comment(2) | TrackBack(0) | 横浜FC選手列伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月28日

前向きに マルコス・パウロ

中盤の鋭いボール奪取と運動量で観客から歓声が沸いたのは、
J1最下位に沈んだ横浜FCにあって、彼のプレーだけだった。



元セレソンという肩書きを引っさげて来日したのは、夏のにかほ合宿から。最下位に低迷する横浜FCの残留への使者として期待は大きかった。
日本に来ての緒戦、横浜ダービー・Fマリノス戦こそ役割分担が
明確でなく大敗を喫してしまったが、1週間後のガンバ大阪戦では
4-1-4-1の布陣を敷き彼を1ボランチに据えた事で、まさに「水を
得た魚」の如くその実力を遺憾なく発揮した。

高い技術だけではなく運動量や強さを併せ持ち、中盤で何度も
相手攻撃陣の芽を摘んでいた。失点しなければ少なくとも勝ち点1は
自動的に積みあがる。リーグ後半戦が始まって得た唯一の希望だった。



ところが、それを壊したのは選手個々の小さなミス。パウロとは
関係ないところで直接失点に繋がるミスを犯して得点を献上し、
自分で自分の首を絞めてしまった。

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荒ぶる男 オ・ボムソク

加入して1週間も経たずにスタメンで出場しなければならない状況を
彼はどう捉えていたのだろう。横浜FCの一員として日産スタジアム
降り立った彼はきっと後悔の念すら抱いていたに違いない。

何がなんだかわからないうちに点を決められ1-8という屈辱的大敗。
それだけではない。来日1週間では日本語もままならず、仲間に
どんな言葉をかける事もできない。通訳はいたかも知れないが、
ピッチで声をかけられなければ、来日1週間の選手と周りの選手の
呼吸を合わせる事もままならない。
しかし、そんな選手がスタメンで出場しなければならない程、
横浜FCの台所事情は苦しかった。



その横浜ダービーに敗れ、続く甲府戦でも敗れ迎えたガンバ大阪戦。
サッカーをするのは言葉ではない。自分の足でするものだというのを
彼がサポーターに教えたのはこの試合だった。
横浜FCは早川が後半にこの日2枚目のイエローカードで退場し、
その数分後に先制を許してしまった。誰もが大差での敗戦を覚悟する
中、ボムソクだけは違った。

彼が中央の位置に入り中盤を豊富な運動量でガンバ大阪の攻撃を
遮断し続け、それはボランチと一言では片付けられない働きだった。
前線から積極的にチェイスしたと思えば、自陣深くにまで戻り壁と
なって相手に立ちはだかった。攻撃になれば積極的に前を向いて、
相手に囲まれても仕掛けた。

横浜FCは和田のゴールで追いついただけでなく、逆に10人になっても
ボムソクに引っ張られる様にガンバゴールを目指した。降格した
横浜FCの2007シーズンでも評価が高いといわれるこの試合の中心には
間違いなく彼がいた。アジアカップで10人の韓国代表が、11人の
日本代表にPK戦の末に勝利した映像の再現を見ているかの様だった。



当時首位だったガンバに10人で戦えた。息を吹き返したかに思えた
横浜FCだったが、その後鹿島戦に敗れた事で高木監督が解任される。

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2007年12月27日

閉ざされた未来 吉岡聡

2006年の出場記録 天皇杯 対バンディオン神戸戦5分

これが吉岡聡が横浜FCで残したプロサッカー選手としての足跡だ。

高校選手権出場もなく、全国的には全く無名の選手ながら国体代表等に
選ばれ、また高校3年生になる前からチームの主力として高崎経済大
付高を引っ張ってきた実力の持ち主で、秘密兵器に近い存在だった。



ところがそんな彼を待ち受けていたのはプロという過酷な現実だった。
彼が主戦場とする左サイドには、その当時からルイス、北村、吉武らが
名を連ね、出場どころかベンチ入りも叶わぬ毎日。
それに同年代でも坂井がおり、同じポジションには後のU-20代表に
名を連ねる太田もおり、彼の出る幕は無いに等しかった。

彼はそれでも、自身に与えられたほんの僅かなチャンスでもがく。
浦和レッズとの教育リーグでは得点を決めたし、面白いテンポで味方を
引き出すプレーも見せた。右サイドも出来る器用な部分も見せた。
だが、彼にそれ以上何かを求めるのは酷な話だった。



チームは好調なまま終盤になっても昇格争いに残り、高卒新人には
殆どチャンスはなかったばかりか、DFでは太田がU-19代表に選出され
始めるなどその差は開いていく一方だった。

だが、主力を「ケガで出られない」とした高木監督の意向で、
出場する事になった天皇杯。横浜FCでの初の公式戦であるだけでなく、
彼に求められたのは同点にするというミッション。後半40分からの
出場で結果を求められた。厳しく高いハードルだが、逆にここで
結果を残せば評価は一気に高まる。そんな彼の思いとは裏腹に、
ボールが彼の足元に回る事は殆どなく、終始ボールを追う事ばかりに
時間は費やされ、その左足から魔法が放たれる事はなかった。

横浜FCは2006年J1昇格を果たしたが、彼はきっと複雑な心境だったに
違いない。

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2007年12月24日

3度目の正直へ 鄭容臺

私は昨年9月の柏戦で彼が決めたゴールを、その背番号「13」にかけて
裏切りだと言った。第39節前半39分の「13」番のゴールは、今でも
はっきりと覚えている。誰もが下位に低迷するだろうという横浜FCの
予想を大きく裏切って、J1昇格が見えてきた、そんなゴールだった。

元々2006年の横浜FCの入団当初は「足達監督からは一番後ろをやって
欲しいといわれている」と私に語った様に、彼は開幕前からCBの
ポジションを取る事が多かったが、実際のシーズンはもっと多くの
働きを求められていた。シーズン序盤は早川が信頼を得るまで、
トゥイードがケガで欠場すれば、それらの穴は全て彼が埋めた。
もちろん本職のボランチでも強固なディフェンスの一翼を任せられ、
それに順応していくのは苦労を強いられたに違いない。



だが「ファイター」とも称される強い闘争心は、それを苦労とすら
思っていなかったに違いない。それまで所属してきた各球団で
出場機会に恵まれなかった為に、横浜FCに移籍した経緯もあり、
彼は出場できるなら「どこでもよかった」そう感じていた。



チームの骨格や戦術がはっきりしてきたリーグ中盤戦、横浜FCがCBに
小村を補強した事で、鄭は本職のボランチに専念できた。2006年は
城やアレモンらの活躍が取り上げられる事が多いが、彼が出場停止等を
除けばほぼケガなくほぼ全ての試合に出場し、出場時間もベスト4と
長く安定してプレーした事はチームには大きかった。

彼自身にとってJリーグ初ゴールを決めれば、シーズン最終戦を
待たずしてJ1昇格を果たした。横浜の守備陣にとって欠かせない選手に
なった。

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posted by おかき at 08:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 横浜FC選手列伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月21日

翻弄されるなら 金澤大将

2006年シーズン、J1昇格を果たした選手達からは意外にも、足達監督に
感謝する言葉が漏れた。「足達さんが礎を築いた」「足達監督が
いたから、リーグ戦を戦える基礎があった」
2006年シーズン、2年目に入るシーズン前に足達監督は自らが足を
運んで、自分の目で確認して選手を獲得してきている。
彼曰く「自分も今年は選手獲得で意見を出させてもらった」とその
選手のレベルの高さに自身を持っていた。



だが、その言葉とは裏腹に2006年の開幕前の横浜FCは大学生以下にしか
勝利できない程に、チームがまとまらず当時JFLのロッソ熊本にも
ロスタイムにゴールを決められて敗戦を喫している。

ロッソ戦→http://okaki.seesaa.net/article/13213823.html

金澤は大卒・高卒選手の中でも足達監督に重用され、ロッソ戦でも
その中で唯一スタメン出場を果たしていた。ユニバ代表という肩書きを
ひっさげて横浜FCに入団した彼には大きな期待が寄せられていた。



だが、突然その前途洋洋な未来を壊したもの。それはJ2開幕戦の
愛媛戦での敗戦。この直後、足達監督は解任され高木琢也コーチ
監督に昇格した事で、彼は突如として出場機会を失う。

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posted by おかき at 23:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 横浜FC選手列伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月14日

戦い続けた不死鳥は安らぐ場所へ

この度横浜FC所属、山口素弘選手が今シーズンをもちまして日本
サッカーリーグ時代から続けて参りました17年間のプロサッカー選手と
しての現役を引退することとなりましたのでお知らせいたします。

山口素弘(やまぐち もとひろ)
■生年月日:1969年1月29日(38歳)
■ポジション:MF
■身長/体重:177cm/72kg
■出身地:群馬県
■チーム歴:前橋育英高等学校-東海大学-全日空/横浜フリューゲルス-名古屋グランパスエイト-アルビレックス新潟-横浜FC
■代表歴:国際Aマッチ59試合出場4得点



解雇の記事は→http://okaki.seesaa.net/article/69140225.html

これでよかったんじゃないかと思う。本人の思いは抜きにして。

横浜でないチームに行くなとは思わないし、やりたければやればいい。
ただ、このチームが生まれるきっかけになったチームに大卒で所属し、
そしてその横浜F最後の試合にも出場し、このチームで自身の最後の
試合が出来た事は重いというか、不思議な感じがする。
宿命とか運命という言葉では重過ぎるが、偶然ほど軽くない。

それは彼のプレースタイルにも似ていて、相手のボールをスルスルと
掠め取っていくのは、偶然では出来ないがそれが宿命でもない。
どちらに転がるかわからない筈のボールがいつも彼の足元にある。
彼の引退を見ているとそういう不思議な感覚になる。

横浜FCは今後下部組織等のコーチの打診はしている筈である。
彼の背中にもう6番はないが、きっと真っ青な不死鳥が刻まれている。
そして、その遺伝子をまた新しい世代に伝えていって欲しい。
posted by おかき at 11:36| Comment(2) | TrackBack(0) | 横浜FC選手列伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月10日

EL ARTISTA 玉乃淳

2006年11月23日三ツ沢。この日の試合で、横浜FCサポーターは今後
忘れる事ができない情景を見たに違いない。城の引退。横浜FCに来て
チームの不振と戦った男が昇格を手土産に引退をし、また緩んだ終盤で
敢えてそれを口にする事でチームもサポーターも一つになった。

ところがその徳島戦のヒーローは彼ではなかった。三ツ沢で初めて
見た鳴門の王子様・玉乃淳だった。2006年シーズンJ2で戦う事になった
東京Vからレンタルで徳島に移籍。元々足元の技術に定評のあった
彼はチームが低迷する中で大きな輝きを放った。48試合のうち34試合に
出場し2得点を上げ、そのうち1点は鳴門で柏を倒した時の貴重な
ゴールだった。



そして横浜FCの昇格ロード真っ只中に立ちはだかったのが彼だ。
11月の徳島戦は誰もが城のゴールで、少なくとも勝利してホームで
昇格を決めたい。そう考えていた。だが、玉乃はそういった空気を
読まずに、プロフェッショナルに徹した。脆弱なる攻撃陣の後ろで
左右に豊富な運動量で顔を出して、横浜のサイド攻撃を遮断。
ボールを奪えば正確なパスで前線にボールを供給。
低迷する徳島の中で一人気を吐き、チームに喝を入れると同時に
「三ツ沢で城が決めて昇格」等という淡い幻想から、勝負の厳しい
現実の世界に横浜のサポーターは引き戻されたものだ。



その玉乃が昨年の12月中旬に横浜FCに加入すると伝えられ誰しもが
あの徳島戦での彼のプレーの再現を期待したのだった。
ところが、その期待は高木監督の戦術の前に打ち砕かれる。

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posted by おかき at 16:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 横浜FC選手列伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月01日

亢龍のゆくえは 久保竜彦

今年の横浜FCは彼に始まったと言っても過言ではない。浦和戦で見せた
ロングシュートは、相手の浦和に衝撃を与えるだけではなく、
日本中の相手チームのサポーターに危機感を植えつけたに違いない。

あのシュートに幻惑されたのは横浜サポーターもそうだった。
私達にはあの武器がある。また決めてくれる。そう勘違いしてしまった
事が悲劇だった。無論仕方ない部分はある。負けて尚強しと思わせて
しまう彼のシュートはその位の衝撃を持っていたからだ。



ただ、私はそう思えなかった。当時の観戦記でも書いたが、あれは
「奇跡」であって片鱗ではないという事だ。簡単にあんなシュートが
決まる事はないが、あのシュートのマイナスの影響はたくさん出て、
その後の試合では久保はボールを持つとロングシュートばかり狙う様に
なってしまった。
それが横浜FCの攻撃を成熟させなかった要因の一つでもある。

とは言っても彼自身は横浜FCの入団には相当の恩義を感じていたはず。
広島時代に自分を後継者と指名した高木監督(当時)が、横浜F・
マリノスから解雇されたを退団した事を知るといの一番にコンタクトを取り
入団を勧誘された経緯があるからだ。先輩の気持ちに報いたい。
それは朴訥な表情の久保でも明らかだった。



ただし、1つだけ彼には不安材料があった。それは腰である。日本人の
中でも稀有なバネを持つ久保だったが、腰を痛めそれが慢性的な
ものになってしまっていた。腰は全身を支える場所であり、局所的な
ケガと違って普段の生活にまで影響を及ぼしてしまう。だから横浜FCに
加入が決まった時に囁かれたのは「腰さえ万全ならば」という一言。

高木監督の推薦もあって、クラブはこのリスクを承知の上で彼を獲得し
たのだろう。そうでなければ道理が立たない。そして、高木監督も
加入した彼を1トップで起用し、今シーズン心中する覚悟だった。

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posted by おかき at 01:19| Comment(2) | TrackBack(0) | 横浜FC選手列伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月29日

青き焔を忍ばせて 吉野智行

城が2006シーズンをもって引退した時、私はその姿を「守るものを
見つけた男の強さ」と表現した。
「Say it ain't so, Jo」嘘だと言ってよ、城

城は感情を表に出してチームを鼓舞し、チームの為にまるで烈火の
如く奮い立ち、その炎が雑音や障害物を焼き払い、前進する原動力に
なっていた感がある。

そして、その炎をもう一人持っていると思ったのがこの吉野智行で
ある。その炎は城の様な激しさはないが、まるで常に消える事なく
我慢強くて芯が通った選手だった。ピンチになれば中盤で声を出して
コミュニケーションをとって味方を鼓舞し、戦術面の修正を行う。
長い試合で大切なのはその場だけの勢いではなく、勢いやリズムを
如何に粘り強く続けられるか。そういった意味で、吉野の様な全体を
見て戦える選手は監督にすれば「ピッチの中の監督」で、その証拠に
昨年新加入の身でありながらゲームキャプテンを務める事もあり、
監督の信頼度の高さが窺えた。



プレースタイルは、ボランチとしては「忍」そのもの。昨年で言えば
鄭や今年の根占の様な強力な奪取力が売りではないし、山口の様に高い
技術でボールを奪い取る訳でもない。しかし、彼にはスペースを感じる
アンテナを持っていた。相手がどこに攻め込みたいのか、それを察知
して的確にスペースを消し、ゲームをコントロールした。

そして機を見てはスルスルと前線に顔を出し、シュートチャンス
窺う辺り、ゲームの勘所を押さえた賢い選手である。湘南で10番を
着けていた事からもわかる様に、どのチームでも相手からみたら
センスがある嫌な選手だった事だろう。



その吉野の2006シーズンは出入りの激しいもので、長く出場したと
思いきや、長く欠場する事もあったシーズンとなった。また終盤には
チームの流れが良い事もあって出場機会が得られなかったところは
あったが、ポイントとなる試合では必ず出場し結果を残した。9月の
仙台戦、10月の湘南戦はアレモンが欠場する中で攻守のバランスを
取り勝利に貢献している。

不完全燃焼に終わった2006シーズンに雪辱を期す意味でも、今年は
例年以上に気合が入っていたに違いない。過去と同じ過ちを繰り
返したくなかったから。
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posted by おかき at 21:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 横浜FC選手列伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月28日

夢の証 薮田光教

これは何かの運命かと思った。それは忘れもしない1999年12月12日。
場所は等々力陸上競技場。ヴェルディ川崎(当時)に延長Vゴールで
敗れた天皇杯。その試合後挨拶に来る選手達。当時ゴール裏にいた私は
悔しさにまみれ、呆然と立ち尽くしていた。

そこにある選手がユニフォームを投げ込んだ。試合が終わった後で汗が
染み込んだユニフォームは、適度な重みがありスタンドまで飛んで
くる。自分の頭上にまで飛んできた。「あっ」と思った瞬間、長身の
私はそれに反応してガッチリ掴んでしまった。
そのユニフォームを投げ込んだ選手こそ、薮田光教だった。



最初なぜ彼がユニフォームを投げ込んだのかはわからなかったが、
数日後彼の神戸への移籍が発表される事になり、それが「サヨナラ」を
意味する事だと理解した。
それまで何度か彼のプレーを見たことはあったが、振り返ってみると
私が観戦した試合で彼が得点した事はなく、サイドのMFとして颯爽と
プレーしている印象が濃かった。もっと彼のプレーを見ておけばと
後悔をした。

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posted by おかき at 10:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 横浜FC選手列伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月27日

信念でも砕けない石頭 小村徳男

横浜フリューゲルスから応援している人にとっては、小村はマリノスを
守る壁という印象しか残っていないだろう。だが、その彼が一度
日本代表として日の丸を背負って戦う事になれば、その激闘を忘れ
懸命に彼の背中を押した。フランスの地で戦った彼の姿を見て、
それから8年。時代は巡り巡って、2006年何の因果かもう一つの
横浜のクラブにやってきた。



時は急を要した。早川の戦線離脱でDFの数が足りていなかった。
その直前の札幌戦では秋葉がまずまずのプレーを見せたが、
高木監督は満足せず。そして、元広島でチームメイトだった小村に
出場機会がない事を聞くと自ら小村を口説き落としてみせた。

加入してすぐの神戸戦にいきなり登場。戦術も何もまるでなかったが、
ストッパーとしての役割を果たした。チームはこの試合に敗れたが、
小村が機能するとわかった事は大きな収穫だった。
また年齢がもたらす経験値は大きかった。守備的なシステムを敷く
横浜FCにおいて、ストッパーの負担は大きいが多くの役割を求め
られるものではなかった。目の前の敵を自由にさせない。それだけで
十分機能していた。そして試合をこなして、連携が深まってくると
信頼度が高くなりよりチームに順応していった。



2006年シーズンはその神戸戦から最終戦となった愛媛戦まで15試合
全てでフル出場を果たし横浜FCにとって必要不可欠な選手となった。

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posted by おかき at 13:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 横浜FC選手列伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

強く、もっと速く 秋葉陽一

「このチームが一番将来性があると思って。」と2006年当初入団した
理由を私に語った秋葉だったが、まさかそれがすぐに現実のものに
なるとは彼自身も思っていなかったに違いない。よくよく考えて
みれば、J2で前年度11位のチームがそれ以上落ちる事の方が難しいの
だから当然と言えば当然の話ではある。名古屋などの練習に参加して
いたユニバーシアード代表のセンターバックが、入団した事は今でも
驚きである。
選手として考えれば強豪チームに行きながらも出場できない状況が
いいか、それとも下位のチームでも出場機会があって活躍できる環境が
いいかと考えると、後者を選択するのは自然であるとも言える。



その2006年シーズン。一躍時代の寵児となった横浜FCにおいて
彼の出番は少なく、高木監督の采配は彼を評価していないととれる
ものが多かった。初めて先発した8月の札幌戦でも高木監督は、

「今日のゲームでは結果として良かったと思うが、全体のパフォー
マンスというのはもっと上げていかなければ、上のレベルでは
できないし、定位置をとることもできない。」

と手厳しいコメントを残している。そして、当時話題となった
広島から小村を直接口説いて加入させた話にしても、秋葉では
物足りないと判断しているからであり、チームとして結果的に成功を
収めたからよかったものの、秋葉にすれば屈辱以外の何者でもない。



その小村の加入以降出場はなく、ベンチに入ったのも1回きりと
不遇の時を託ったに違いない。天皇杯でもCBは室井と高卒の太田に
奪われ、ベンチ入りする事もできなかった。
チームとして昇格したが、その笑顔は屈託のない笑顔ではなく、
自身は殆ど貢献できなかったという悔恨の苦笑いだっただろう。

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posted by おかき at 10:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 横浜FC選手列伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

昨日の敵は、今日の友、そして明日は 坂井洋平

2005年の横浜FCの新戦力の顔ぶれはどれも多彩なものだった。
トリニダード・トバゴ代表のシルビオ、JSCから入団した高橋・日比、
元横浜Fの佐藤、クラブ史上初めてとなるユース出身の大槻らが
いる中で一際異彩を放ったのが、坂井だった。
18歳の時にACLに出場していた事よりも、同じ横浜に本拠地を置く
横浜F・マリノスユース出身の経歴に注目が集まる。



横浜FCと横浜F・マリノスの関係を知っているのか、初めそう思った。
労働の自由という言葉があるから、彼がどこのクラブを選択するかは
自由である。それにしても、何でマリノスのユースなんだ、優秀な
ユースを持つチームなら他にもあるのに。本当にそう思った。
彼に会うまでは。

彼に最初に会ったのは、しんよこFPでの練習だったと思う。
想像していたよりも細身でガツガツしていない。「俺はマリノスだ」
的なオーラが出ているのかと思ったがそうじゃなく、静かに
落ち着きはらってサポーターに対応しているのを見て、自分の浅はかな
推測を後悔したものだ。



2005年は激動の年だった。シーズン初頭に掲げられた育成主体の
プランの下で経験を積み、ゆくゆくは横浜FCの主力選手になる筈が、
大株主の登場によりベテラン選手重視のチーム構想に変化した事で
出場は3試合で198分に限られてしまった。それでもその左足には
希望があった。時にはFKも蹴る正確性と物怖じしない性格は、
翌年への胎動だと思えた。
私がまだトリニダード・トバゴにいた2005年京都戦で小野信義に
代わって出場したと聞いた時は、世代交代を感じたのだが。。。

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posted by おかき at 00:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 横浜FC選手列伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月26日

22歳の別れ 岩倉一弥

あの猫背がより一層寂しさを物語る事になってしまうとは。

OSA(奥寺サッカーアカデミー)より入団したのは2004年だった。
その年は2試合の出場に終わり、翌年2005年は7試合だった。
記録だけ見れば、大したことのない選手かも知れない。



2005年は横浜FCにとって散々なシーズンだった。シーズン前に
「育成」を主眼に招聘した足達監督だったが、シーズン半ばで
株主が変わった事で下位にいながら「昇格」を突きつけられ、
そして、ベテラン選手を補強した事で「育成」というシーズン当初の
目標は霧散してしまった。
また、その昇格という目標も順位やチーム状況を考えれば現実離れ
した看板に過ぎず、結局両方とも達成できないまま11位で
シーズンを終える事になった。

そのシーズンの中で、唯一輝きを放っていた若手が岩倉だった。
元FWであり、非凡なスピードを持つ彼は右MF、右SBを主戦場に
私達の期待に応えるがのごとく溌剌とプレーしていた。
ところがその岩倉が2005年シーズン夏に登場したが、なぜ7試合の
出場に留まってしまったのか。

夏に三ツ沢で行われた甲府戦は壮絶な打ち合いとなった。甲府が
4点を先制した後、シルビオの投入から流れが代わり横浜FCは
後半だけで3点を叩き込む。残り数分に1点を意地でももぎ取りたい。
その思いから前線へ飛び出した岩倉だったが、、、
甲府DFのタックルに遭い右足の脛骨を骨折。選手交代を使い果たして
いた横浜は残り10人でのプレーを強いられ、結局3-4で敗戦の
ホイッスルを受ける。岩倉には試合終了だけでなく、シーズン終了の
笛と聞こえていたのかも知れない。

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posted by おかき at 20:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 横浜FC選手列伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月25日

不死鳥の魂は死に場所を探して、、、未だ

横浜FCでは山口素弘選手について、契約満了に伴い当クラブと来季の
契約を更新しないことが決定しましたのでお知らせいたします。

山口素弘(やまぐち もとひろ)
■生年月日:1969年1月29日(38歳)
■ポジション:MF
■身長/体重:177cm/72kg
■出身地:群馬県
■チーム歴:前橋育英高等学校-東海大学-全日空/横浜フリューゲルス-名古屋グランパスエイト-アルビレックス新潟-横浜FC
■代表歴:国際Aマッチ59試合出場4得点

■山口素弘選手のコメント:
横浜FCでは、サポーターの皆様をはじめ多くの方々に支えていただき、
とても感謝しています。ご声援ありがとうございました。
皆様と共に再び「三ツ沢」をホームに戦えた事は大きな喜びでした。
これからも、サッカーマンとして成長していきたいと思っています。
まずは、次節浦和レッズ戦に全力を尽くします。




山口素弘に戦力外通告を行った。05シーズン途中に加入した山口は、
そのスキルとパスセンスにより昨年横浜FCをJ1昇格に導いた。
しかし、07年はJ1での運動量不足、判断ミス、絶対的なスピードの
不足を露呈し、夏前にはスタメンを外れた事や元セレソン・パウロの
加入により高木前監督の構想から山口の名前は消えてしまった。
ジュリオレアル監督は山口をボランチに据えて、降格脱出を計ったが
それも失敗。彼の成績がイコール横浜FCの降格の原因の一つでも
あるとも言える。
そして、今回横浜FCは山口に契約の延長をしない旨通告した。

個人的感情を抜きにすれば、彼の解雇は妥当だと思う。確かに彼の
パスが横浜FCの攻撃の起点となるから、相手チームが彼を狙うのは
予想内の戦いだったが、凡ミスを繰り返し失点を重ねた事でチームの
戦術は破綻。低い位置でボールが回せなくなると安易に前方への
フィードを繰り返し、それを奪われて攻撃を受けた。

ただ個人的には、横浜フリューゲルスの生き字引だった選手が
三ツ沢に戻ってきた時の何とも言い知れない、静かな感動は
今でも忘れられない。ただ、やはりプロの選手は結果を残してこそ。
結果を残せなければ舞台から去るしかない。
そして彼は引退はせず未だ死に場所を探している。

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posted by おかき at 20:41| Comment(0) | TrackBack(1) | 横浜FC選手列伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする