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2015年11月23日

「未完のタイキ」村井泰希

彼の横浜入団は当初から曰く付きだった。2010年オフ高卒で横浜に入団し背番号1を背負っていたGK大久保択生が契約延長を拒否して移籍した事に始まる。GKが3人しかいなかった横浜で年齢的にも若手の背番号1を突如失うのは大きかった。そこで緊急補強として白羽の矢が立ったのがこの村井だった。
名門・四中工で1年生から正GKとして活躍。関、シュナイダーという中堅、ベテランの選手に加えて18歳で高卒なら年齢的なバランスも良い。全国高校選手権にも出場しており、実力も一定程度ある。

しかし、プロの壁は厚かった。2011年、2012年と出場はおろかベンチにも入れない日々が続く。2012年に至っては、強化指定選手としてGK島崎が加入。居場所を失っていく村井。

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2013年からはGK渋谷の加入も決定し、2013年も第3GKを争う事となる村井が一大決心。横浜FC香港(現在の夢想駿其足球會)へのレンタル移籍を決めた。そして記録としては5試合の出場にとどまってはいるが、海外でプレーする事は、個人的には日本だけにいるよりも遙かに良い経験になったのではないかと思う。なぜなら海外のリーグは、日本よりも流動化が激しい。それはチャンスの数も多い事を示す。
日本の方が待遇はいいかもしれないが、若くて野心的な選手なら別に日本でなくてもプレーして名を上げる事は皆考えている事だろう。

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2012年12月28日

「坂」 関憲太郎



「人生には3つのさかがある。上り坂、下り坂、そして"まさか"」

関はそのどれもを2011年の一年で経験する事になってしまった。2010年レンタル移籍でJ2のチームに加入してシーズン途中からスタメンを奪い、昇格戦線に足を踏み込むまでにチームは成績を上げた。レンタル契約を延長して、臨んだ2011年も背番号31は横浜のゴールマウスの前に立ち続けた。

チームの成績こそ芳しくないが、関のスーパーセーブで何度も救われたシーンはあり、「関だからあの失点で済んだ」という声もあった。



チーム状況はともかく、彼自身の評価は悪くなかった。しかし、約1年で築いてきた評価を壊してしまうプレーが起きる。
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2012年12月03日

「右SB=右サイドバックばっかり」 杉山新

サイドバックを翼に見立てるのは、横浜のエンブレムが不死鳥だからだろうか。その不死鳥がまだ完全に飛び立てないのは、この翼が毎年の様に生え替わっているからだろう。右サイドバックはそれが顕著で、J2に降格して以降08年は中田、09年は田中、10年は柳沢、11年は荒堀、藤田と監督の意向に沿った選手を獲得するが、柳沢を除いては様々な事情があるにせよ2年も在籍しないまま横浜を去っている。



難しい話は省略するが、現代サッカーでサイドバックの重要性は高く、スピード化に伴い運動量は必須。かつ、縦への突破にクロス、あわよくば自ら決めるシュート力、そして相手を押さえ込むフィジカル、柔軟性などキリがない。その重要なポジションが安定しないということは、チームの成績も安定しにくい。



右サイドバックが3人抜けた2012年、大宮から新加入したのが杉山だった。甲府所属時代に鮮烈なミドルシュートを叩き込まれた記憶がある方も多いだろう。小柄な身体でも終盤まで落ちない運動量、そして攻撃参加は魅力的だった。



本職の右サイドバックが一人の2012シーズンの横浜では、そこは彼の独壇場だった。岸野監督から山口監督になっても彼はポジションをキープし続けた。



ところが6月の栃木戦で井手口にポジションを譲るとそこからは井手口とのまるで1対1のサバイバルレースが始まった。井手口が出れば杉山が外れ、杉山が出れば井手口が外れる。そして試合に敗れるとポジションを明け渡すというシビアな戦いだった。
それはチーム全体で見ると良い循環だった。出た選手が結果を残したいから良いプレーをする。それがチームの勝利につながる。

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2012年11月27日

「聖者の行進」 堀之内聖

中学校、高校とカトリックの学校だったからだろうか「聖」という字には、特殊な尊さを感じている。それを名前に持つ選手が横浜に来た時は、言葉に出来ない喜びを感じていた。堀之内聖が一年で横浜を去る事になった。
明確な理由を当てるのは難しいが、終盤戦の捻りあいでゲームを落ち着かせられなかった事、守備でもスピードかフィジカルの強力な相手には苦戦していた事、そしてビルドアップが殆どできなかった事が理由だろうか。



逆に言えばそれだけ彼に求められていたものは高かった。ハワイの国際招待の決勝戦の前半、キャプテンマークを巻いていたのは日本サッカー界のレジェンドではなく、彼だった。長年J1で戦ってきた的確な読みとカバーリング、そしてキャプテンシーはまだ戦えると判断して横浜は2012年1月に彼にオファーをしたのだった。



しかし、彼がポジションをつかむまでは苦しい戦いだった。なによりまずリーグ戦に出場したと思えば、その試合限りで岸野監督(当時)が解任になり、そこからはベンチに座る日が続いた。それでもクローザーとして結果を出し、杉山の欠場でチャンスをつかむと徐々に結果を残し、リーグ戦後半最初の町田戦からはペの負傷欠場もありスタメンを勝ち取るとそこから8試合連続スタメンに定着。この堀之内の出場とも相まって横浜は見事に右肩上がりの成績を出し、序盤最下位を経験したチームが夏場にはプレーオフ圏内を伺うまでになっていた。



と、同時にチーム内の競争も激化。ペを軸に森本、渡邉と熾烈なポジション争いが起きた。ただ、これは良い循環で、他の選手が結果を出して切磋琢磨してまたチーム力が上がる。またカバーリングに長けたプレースタイルは誰と組んでも相性がよく、使い勝手の良い選手でケガなどなければ手元に置いておきたい選手だった。

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2012年02月18日

「すれ違いの純情」 橋村祐太

2011年8月、小野瀬の突破から野崎がゴールを決めたシーン。私は多分他の方と違うことを思い浮かべていた。野崎には悪いが、小野瀬の突破から橋村がこんなゴールを決める時がいつか来るのだろうと感じていた。北九州にいる彼のことを思い出しながら。。。

2010年横浜FCは横浜FCユースからクラブ史上2人目となる橋村のトップチーム昇格を発表した。横浜FCは2006年ごろからユースをはじめとする育成組織を再編し、新しい仕組みの中で強化されはじめた世代が彼らだった。鶴見ジュニアユースから横浜FCユースという一種の純血サラブレッドで、2010年岸野新監督の招聘と共に一つの目玉であった。



2010年期待されながらもプロの壁は厚く、ベンチに1試合だけ入った事が記録として残っている。これも怪我人などによるおまけ的な要素は強かったが、それでも高卒1年目で体感するプロの本気の場所を経験する良い機会となった。ベンチメンバーであっても、橋村の名前がコールされた時の拍手の大きさ、熱さは他の選手にも負けていなかった。誰もが我が子の事の様に喜んだ。



2011年彼は戦う場所を北九州に求めた。新卒かも知れないが、出場したいという思いはどの選手でも同じ。試合に出たい一心で新天地に向かった。

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2012年01月22日

「卒業」 荒堀謙次

大卒1年目の選手が、自らの意志で違うクラブに出て行くという意味をどれだけ横浜FCというクラブは理解をしているのだろうか。「移籍はプロ選手につきもの」「離れたいなら仕方ない」確かにそういう声があることは認識しているが、雇う側としてみた時に戦力として計算している選手が他のクラブに出て行かれてしまうのはどこに原因があるのか考えていかなければならない。年俸、成績、チームの方向性、練習などの環境など様々な要因が選手のプレーするクラブの選択に関わってくる。



荒堀のこの移籍は象徴的だ。多分年俸を除けば殆どの個人的な要件ではダウンや悪い変更はないにも関わらず、1年前に納得して入ってきた選手が既に外に心が向いているのだ。横浜と比べて大きなJ1のクラブならいざしらず同じカテゴリの栃木に、自分をJリーグに誘ってくれた岸野監督の下を離れるということは、年俸のダウンだけではない、別の思いがあってここを出て行った事が推察される。

2011シーズン、荒堀は出場2試合目にしていきなりゴールを見せる。アウェイの湘南戦。右サイドでボールを受けてペナルティエリア内に侵入すると、相手DFが寄せるのも気にせず放ったシュートは強くネットを揺らした。開始1分で目の覚めるような代名詞代わりの一発だった。
このゴールをきっかけに荒堀は存在感を高め、武岡が怪我で今季絶望、寺田がシーズンの多くを負傷で欠くこともあり、出場機会にも恵まれた。また緊急時にはサイドバックもこなす事もあり、重宝された。

彼の武器は、ドリブル。湘南戦でもそうだが、ボールが動いていないところからでもテクニックとスピードで振り切れる選手。特にカウンターから持ち込んで突破する姿は、シーズンの成績に恵まれなかった横浜において、可能性を多く残す選手であったのは間違いない。野洲高校時代に、乾(現ボーフム)らと全国優勝した経験もあり、その頃から素質に恵まれていた。



夏の一部の時期を除いて、右サイドバックの柳沢の負傷だったり、武岡、寺田の長期離脱もあり、荒堀は多くの試合に出場をしている。また縦への突破が持ち味であることから試合の流れを変える役割も担った。2011年は湘南戦で初勝利し、湘南戦が最後の勝利だったが、荒堀はそのどちらの試合でも点を決める湘南キラーでもあった。今年の横浜は彼に始まり、彼で終わったと言っても過言ではなかった。チームの成績は厳しいものだったが、チーム中で精力的に戦い続けた荒堀を高く評価してもおかしくはなかった。
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2012年01月16日

「温い水」 柳沢将之

某掲示板で「温水」「ぬっくん」の愛称で呼ばれた選手がいた。それは2010シーズン、岸野監督と共に鳥栖から横浜に移籍してきた柳沢将之のことである。「温水」と呼ばれたのは俳優の温水洋一氏に似ているからだと言われている。それが本当かどうかはともかく、サイドバック然りといった姿は見ているものを一種ほっとさせてくれる選手でもあった。



加入当初から柳沢は、横浜の右サイドバックを務めた。サイドラインで岸野監督の指示をディフェンスラインに伝えるだけでなく、ラインコントロールも任せられるという厚遇だった。

当初から私の彼への評価は高くなかった。何よりもクイックネスが足りていなかった。それを粘りで押さえ込んでいたのだが、やはり一枚上手の相手が出てくると簡単に突破されることが多かった。それまで右サイドバックだった田中を押しのけてのスタメンだったが、田中も瞬発力勝負は苦手だが運動量があった。強い決め手がないまま柳沢が開幕戦からスタメンを張り続ける事に不安はあった。2010シーズン、横浜は序盤連敗を重ねてしまう。柳沢もミスを重ねた。だが、岸野監督は彼を起用し続けた。



夏場になり、ホベルトや阿部の加入もあり勢いを取り戻した横浜は昇格戦線に向けて、急激な上昇カーブを描いて殴りこみにかかった。そこに柳沢もいた。



その勢いに陰りが見えたのは9月。目下の昇格候補の福岡に敗れ、甲府にも引き分けで後がなくなった鳥栖戦。勝った方が生き残る、負ければ終わりというデスマッチに彼は先発したが、前半12分で故障して交代。試合も引き分けとなり、昇格は絶望的となり自身も消化不良のままシーズンを終えることになった。

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2012年01月11日

「満身創痍」 藤田祥史

いつかしら彼の膝にはテーピングというにはあまりにも大きなまるでコルセットの様な分厚い包帯が巻かれていた。そしてそれは最後まで解けることは無かった。



2010年後半の反省はカイオ頼みのサッカーになってしまいがちだったこと。その解消の為に鳥栖時代に岸野監督の下で、大活躍をした藤田祥が加入することになった。その目論見どおり彼は開幕戦で幸先良くゴールを決め、その存在感を示したかに見えた。



彼を前に置き、カイオを1.5列目あるいはボランチという起用を岸野監督は開幕戦でも試みている。ただこの起用は、カイオがボールを持ちすぎる事から前線の選手との連携が悪く、それで序盤頭を悩ませることになる。結局カイオの負傷もあり、この策は放棄することになった。とはいえ、藤田祥、カイオは共存させたい。東京ヴェルディ戦では、藤田祥をトップ下に置くという驚きの布陣まで試していた。



5月こそ藤田は前線で起用されていたが、途中交代などがあるとサイドのMFをこなすことになった。彼は実に器用だ。センターフォワードもし、サイドのMFもし、時にはトップ下までこなす。背丈が大きいが、彼の良さは左足からのボール捌きとキープできる力。そして豊富な運動量。サイドでためを作れるから、計算できるのだろう。



ただ、それだけ消耗も激しかった。特に2011シーズンはチーム内に怪我人が多すぎた。ベンチの控えも7人入れないアウェーの試合もあった。それでも岸野監督は、藤田祥の起用にこだわった。10月の数試合を除き殆どの試合で彼をスタメンで起用。ギリギリの状態で出続ける彼を見て思った。

2011年の藤田祥は横浜FCそのものだったと。

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2012年01月07日

「昇れ、青き竜よ」 伊藤竜司

戻ってこなかったか。それが第一感だった。2011シーズン、伊藤はFC琉球で30試合に出場していた。それは主力として認められた証。FC琉球史上最高の成績を挙げていた。横浜のふがいない状況と相まって、琉球で結果はともかくスタメンを張る伊藤の名前は何度も目にしていた。淡い期待はあった。



横浜の2011年の問題の一つは、センターバックの層。渡邉の怪我、飯尾の不調もあり、中野、朴、森本で回転させたが、中野は左サイドバックが本職であることを考えると実質2人。宮崎が負傷を抱えても代用できる選手がいないから、無理して出る。無理しながらだからどうしても動きが悪い。そして悪い結果も招く。こういう負の循環があった。



伊藤の横浜残留を考えるとして、もし朴が残留すると彼は今年20歳。森本も今年24歳。21歳のセンターバックを入れるとバランスとしては若干若く感じる。同時にリリースになったペ・スンジンは24歳。Jでの経験も草津、徳島を経て昨年は昇格争いも経験。プレースタイルはどちらもストッパータイプで同じ。仮にペと伊藤が契約争いをしていた場合、伊藤が上回るのは若さと試合の出場数、そして数センチの背丈。カードの多さ、言葉の問題に目をつぶっても実績を買ったと推測できる。

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2011年12月30日

「転校生」 宮崎智彦

2011年1月1日彼は歓喜の輪の中にいた。その天皇杯優勝の歓喜覚めやらぬ中、彼の横浜へのレンタル移籍が発表になった。期待というよりも、驚きをもって受け止めたのを覚えている。

入団会見で緊張の面持ちをしていたのは、天皇杯優勝メンバーでありながら鹿島を出る事になったこと、そして横浜というJ2のクラブという一種の左遷に近い移籍に戸惑っていたのではないか。あの時の気分はまるで転校生だった。



3月にJ2リーグが開幕したが、宮崎の良さはまるで見えなかった。それどころか、自身のミスからボールを奪われてそのまま失点を喫するという最悪の内容で2011シーズンは幕を開けた。その後、震災の影響により1ヶ月近くのブランクがあった後も、彼は周りとの連携が上手くいっていなかった。

攻守とも中途半端なプレーだった。クロスやフィードは速くて低いが、受け手はトラップしづらいボールだったり、守備では自分から積極的にプレッシャーにいかずスペースを与えて裏を取られるということもあった。きっと鹿島の選手なら、その位は自在にトラップ出来るのかも知れないし、自分がプレスにいかなくてもMFらがコースを切ってくれるから好きに出来たのかも知れない。だがここはJ2だ。鹿島でやっていたことをそのままやっても中々通用しない。また、岸野監督のコンセプトは「走る」事だから、待っていては何も変わらない。



同じ移籍組の中野や藤田優らがチームにフィットしていく中で、彼一人が中々フィットできずにいる。クラスのルールに馴染めず、孤立してしまう転校生の典型みたいな状況になっていた。

しかし、そこに転機が訪れた。陽介君だ。底抜けに明るい陽介君は、いつも攻撃が大好き。足が速いから戻るのも速いけど、いつも前に行ってしまう。そうするとそのスペースを埋めるのは彼がしなければならないと明確になった。引き摺られるように宮崎君もやや前にポジションを取らざるを得ないから、裏への意識が自分で持てるようになった。



攻撃でもタメを作った時に、追い越していく宮崎君を使ってくれた。彼の登場で宮崎は自分のプレーをようやく披露しはじめた。相手との間合いを上手く使って巧みに突破し、低空で速いクロスが供給される。

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posted by おかき at 09:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 横浜FC選手列伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする