最近の記事

2014年05月05日

石の城 丸亀城

今回も横浜FCの遠征に合せて香川に訪問。28日に回ったのは高松城、丸亀城、そして金比羅宮で今回は丸亀城を。丸亀城は、JR丸亀駅から徒歩10分程度で到着。城外からも天守が見える。

DSC03374_20140429.jpg

香川というか讃岐は国土も小さくまた過去に大きな戦いも少ないので大きな城が少ない。丸亀城の現存木造天守は3層3階ではあるが、国内では最小の規模のもの。現存天守12閣の一つであり、四国では最も古い(松山城、宇和島城、高知城も現存天守)。400年以上経っても残っている。

DSC03356_20140429.jpg

DSC03359_20140429.jpg

現存天守が有名ではあるが、石の城として丸亀城は高石垣も有名で、三の丸から続く石垣は見事。天守まで計60メートル近くになる絶壁は圧巻。
続きを読む
posted by おかき at 23:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 国内旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年11月15日

七尾城に登ってきた

七尾城と言ってもピンと来ない人がほとんどだろうなぁ。行くと言っても「どこ?」「へ〜(知らんけど)」みたいな事を何度も言われる。戦国時代においてこの城は地味だ。一般的には上杉謙信が能登に攻め込みこの城で畠山氏と戦った位しか知られていないだろうし、それすら知らない人の方が多いかも。またこの畠山氏がマニアック。信長の野望でもやってないと知らないほどマイナー。歴史を遡ると名家であるが、悲しいかな戦国時代では勝者しか認知されない。

DSC03189_20131109.jpg

そんな畠山氏の居城が七尾城。当主は地味な存在ではあるが、城は日本五大山城に数えられるほどの城で、無数の尾根に砦が築かれた大規模な山城は、侵攻した上杉謙信ですら美しさ、壮大さに詩吟を読んだと言われている。七尾というのは七つの尾根という意味であり、城自体はその中の松尾に築かれた。

DSC03187_20131109.jpg

また当時は山麓に千門万戸が広がり、単純な城というよりも居住区兼城郭だったと思われる。八王子城なども山城で武家屋敷などは麓にあるが、七尾城では上級武将の屋敷は二の丸、本丸付近にあるという部分で城郭都市に近いものだったのかも知れない。

DSC03197_20131109.jpg

DSC03222_20131109.jpg

この城も上杉謙信が接収した後は、織田信長の手に渡ったが、山城の時代は過ぎており前田利家は七尾城の麓に小丸山城を築いてそこで執政をした。利家の嫡男・利政が入るも江戸時代を前に廃城に。逆にそうなったから、今でも非常に保存状態が良いまま残っている。城が現代までどういう姿で生き残るかも紆余曲折がある。

続きを読む
posted by おかき at 20:31| Comment(2) | TrackBack(0) | 国内旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月14日

湯築城にも行ってきた!

今治城に行った翌日昼は松山城で過ごし、愛媛とは思えない寒さだったので夕方から道後温泉に湯治を。その手前の道後公園にあるのが湯築城跡。というよりも道後公園の敷地がそのまま湯築城跡と言ってもよい。この湯築城は日本100名城の一つに指定されているのだが、自分も含めて中々そんな城とは気が付かない。

DSC02051_20121223.jpg

100名城は地理的なものも考慮されるが、愛媛は5つと多く地域的なバランスで湯築城が選ばれている感じはしない。路面電車で10分ほど走らせると松山城がある位だから。となると、築城の古さ(1300年代前半)と土塁の保存状態の良さか。渋い〜

築城が河野氏と聞くとピンと来るかも知れないが、某戦国シミュレーションゲームをやった事があれば伊予の国は河野氏の支配と覚えているはず。その河野氏が鎌倉時代からずっとここ湯築城を拠点にしていたのだ。

DSC02053_20121223.jpg

ただその湯築城も戦国時代に河野氏の支配が終わると、江戸時代には松山城が築かれてほぼ廃城同然になってしまった。その後時は流れ、当時動物園の閉園・移転に伴い発掘調査をしたら、湯築城の武家屋敷跡などが出土し公園として整備したと言う。


続きを読む
posted by おかき at 08:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 国内旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年12月26日

今治城行ってきた

12月の3連休は愛媛に行こうと思っていた。クリスマス云々ではなく、やっぱり旅って楽しいから。28日からはメキシコにも行くというのに、そのお土産を仕入れようと思っていた位だった。
さて、愛媛に来たのは城が見たいからだ。日本100名城が5つもある。松山、湯築、今治、大洲、宇和島の5つ。その最初に行ったのが今治城だった。11時30分に愛媛に到着。半日で行けるところとして今治を選んだ。今ちょっと話題のバリィさんにも会えるなんて思いながら。

ところがである。JR今治駅を出ると人がいない。大きな道路を車が行き交うだけ。今の日本の地方の小さな都市の現実を見た。小学生らしき女の子が、自分のことを怪訝そうに見ながらすれ違っていく。地方は車社会だから、今治駅から今治城のたった徒歩10分も歩かないのかも知れない。

DSC01983_20121222.jpg

今治城は築城当時よりも大分小ぶりになってしまった。3つあった堀が1つになり縄張りそのものが縮小。江戸時代より小さな街だったからこの位が良いかも知れないが、それでも1時間あればさっと回れてしまう小ささ。

DSC01992_20121222.jpg

藤堂高虎は築城の名手で、彼はここに作った天守をそのまま次の赴任地に移築されてしまったりする。その位この天守は評価が高くこの天守が出来た事で他の大名もこぞって真似をした、まさに天守のひな形のような存在だったという。(城の案内の受け売りw)


続きを読む
posted by おかき at 01:21| Comment(2) | TrackBack(0) | 国内旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年12月16日

熊本城行ってきたぁ

10月の横浜FCの熊本遠征に伴って、自分も熊本行きました。以前2006年に熊本に行ったときは、中々じっくり見られなかったがこの日は、熊本城の為だけに時間を確保して観覧してきました(笑)6時間くらいはいたと思う。

築城した加藤清正って熊本城のイメージが強いけど、尾張名古屋の人で自宅の近くに生誕の碑みたいなのが立ってるし、清正幼稚園てのもあって、自分には名古屋から出世した人ってイメージかな。ちなみに自分が出たのは豊臣幼稚園。どうでもいいか。

DSC01876_20121021.jpg

櫨方門(はぜかたもん)が入場口になっていて、そこから竹の丸に入ると、最初から超弩級の城の大きさに圧倒される!遠くに天守閣が見えるけど、手前の独立櫓跡がまさに壁。写真を見ると手前に人がいるからその迫力がよくわかる。
ここからは城を回り込む様に東竹の丸を歩いたけど、今回は割愛します。。。

DSC01902_20121021.jpg

この独立櫓群を抜けると上には二様の石垣があります。これは石垣の工法の違いがわかるところ。石垣好きな人向けに写真撮って来ました!ここにはないけど、きらびやかな天守を支えるのは石垣なんですよ。城を外敵から守るのも石垣あってこそ。男性は好きな方多いかも。

今でこそここを抜けると天守で楽なコースだけど、サッカーや将棋と同じで直線的なコースは当然守りも堅くなっているんだよねぇ。実際熊本城は西南戦争でも落城しなかった強い城。

DSC01906_20121021.jpg

天守どーん!大天守と小天守の二つで一つ。本丸には武士がいたw松山城のぼっちゃんとかと同じ感じで。観光地ですね〜それとこの日、空が抜けるようにきれいだったぁ。

続きを読む
posted by おかき at 11:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 国内旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年10月27日

二本松(霞ヶ城、智恵子生家、鞍石山)行ってきた その2

(前回まで)二本松出身のOさんのお母さんにガイドをしてもらい、資料館と高村智恵子の生家を回って、その裏にある鞍石山に登った。

展望台から本来なら阿武隈川が見えるはずなのに、バイパスの柱などもありもう見えなくなっていた。お母さんの話は40年前なので、それから日本が発展してきた陰で失われていった自然を現地の方の言葉で実感、再認識する。展望台から道を下る。次はいよいよ二本松城(霞ヶ城)に向かう。

DSC01843_20120922.jpg

智恵子の生家から車で10分ほど。で二本松城の正門というべき箕輪門近くまでやってきた。もう少し先にも駐車場があるらしいが、やはり下から全部行きたい。その箕輪門の手前には、戊辰戦争で散った二本松少年隊群像がある。白虎隊は元々そう組織されていたが、二本松の場合は隊名がなく後で付けられたもの。それだけ軍として育成されていない少年達が戦いに急に駆り出されてしまったのだろう。

DSC01851_20120922.jpg

箕輪門をくぐる。決して二本松城は大きな城ではない。箕輪門は、門を造る木材を箕輪村から切り出したことに由来する。福島って木材も豊富な感じがする。

DSC01853_20120922.jpg

霞ヶ城公園として整備された中に城郭の中心がわずかに残るにすぎない。それでも二本松城が有名なのは、城跡が古く畠山氏の時代に遡ることと戊辰戦争における戦いの中心の一つになったことだろうか。ただ、殆ど破却されてしまっているのはもったいないなぁ。

続きを読む
posted by おかき at 18:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 国内旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年10月07日

二本松(霞ヶ城、智恵子生家、鞍石山)行ってきた その1

今回は9月22日、23日と福島に行ってきたので、その観光の模様をお届け。

22日の午前に東京を発って、福島に着いて、東北本線で二本松入り。福島から二本松までは駅が5つなので、思ったよりもすぐに到着。福島駅を出る際に、二本松出身の友人から電話があり「実家の母親にガイドを頼んだから駅で待っている」との事って時点で、そんな展開にビックリ!
二本松の駅に着いて初対面なのに、いくつものガイドブックを抱えて待っていて下さり、本当に申し訳ないというか、ただひたすら感謝感謝感謝。そして車に乗り込み、二本松観光開始。

DSC01823_20120922.jpg

最初に行ったのは、二本松歴史資料館。二本松駅から車で約5分。1階は、二本松や二本松近隣出身の芸術家の彫刻や絵画が展示されていた。2階は特別展示なのか、「二本松少年隊」に関する展示と、新島襄の夫人・八重がここ二本松出身という事で特別展示されていた。
少年隊は、会津の白虎隊が有名ではあるが、こちらでも同じように少年達が兵力として新政府軍との戦いに臨み散っていった。その一方で八重の様に戊辰戦争を生き抜き、維新後に活躍する人間もいる。やっぱり感慨深い。

DSC01828_20120922.jpg

小一時間歴史資料館を見て回ったら、次はガイドでちらっとみかけた智恵子の生家に行ってみる事に。日本で「智恵子」と言えばあらかた誰か示しがつくというのも珍しい。
歴史資料館からは車で10分程。資料館の前に二本松城の大手門の礎石があったから、車で城内に入っていく感覚である。実際交差点で郭内という地名を見つける事が出来る。その郭内からさらに東に5分程度。

続きを読む
posted by おかき at 08:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 国内旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年09月01日

長篠城

長篠の戦いはみんな知っていても、長篠城は殆ど聞いた事がない。長篠城は日本100名城になるのには訳がある。日本の歴史を変えたと言っても過言ではない長篠の戦いは、長篠城の攻防戦抜きには起こりえなかったかも知れないのである。

長篠城は元々菅沼氏が築城し、その後武田信玄の侵攻により武田家の配下になる。だが、信玄は病を患い上洛を止めて撤退する中で死去。武田軍は甲斐に引き上げ、その間隙を縫って徳川氏が三河での失地回復を図り、長篠城を奪還していた。そして信玄の嫡男・勝頼は1575年に再び上洛を開始。これにより長篠城での戦いが始まる。
DSC01805_20120818.jpg

長篠城を守る奥平信昌の兵は500、武田軍は1万5000。豊川と宇連川の合流地点に立てられた後堅固の城は、武田軍の猛攻を退け続けたが、兵糧が尽きてしまう。そこで鳥居強右衛門という者を使者にし、岡崎城にいた徳川家康に援軍の要請を行うが、戻ってきた際に武田軍に捕らえられてしまう。ここで「援軍は来ない」と言えば厚遇すると言われていたが、「援軍は後数日で来る」と川岸から叫び城兵は意気軒昂とし結局武田軍は長篠城を落とせないばかりか、織田・徳川の援軍3万を呼び込んでしまう形となった。

DSC01797_20120818.jpg

武田勝頼は、信玄時代の旧臣達が引き上げることを進言するも開戦を実行。馬場信房、山県昌景、内藤昌豊、土屋昌続は死を覚悟し、武田勝頼の本陣の近くにあった大通寺の井戸で最後の杯を交わしたという。
ほどなくして、武田軍は陣を長篠城を見下ろせる医王寺山から、西の平地に移動。ところが長篠城の見張りに置いていた部隊は、徳川方の酒井忠次の部隊により殲滅されすっかり取り囲まれる形になった。
そして、武田軍は鉄砲隊が待ち構える設楽が原に騎馬隊で突撃し、完膚無きまでに叩きのめされ武田軍の重臣を悉く失ってしまった。この後はご存じの通り、武田家は一気に滅亡への道をひた走る事になる。

長篠城は、遺構としてわずかに土塁や空堀などは残っているものの、そもそも戦国時代に廃城になった城の為殆ど何も残っていない。特に城の北側は普通にアスファルトの道が通っているし、南側はJR飯田線が城内を分断する形で走っている。だから長篠城単体というよりも、それらを含めた設楽が原にいくまでの物語をイメージしながら歩く方が良いと思った。

続きを読む
posted by おかき at 13:23| Comment(0) | TrackBack(1) | 国内旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月03日

犬山城

新春早々に足を運んだのは犬山城だった。帰省して、100名城に行こうと思ったからである。ただし、今回は母親も同伴。暇らしいので、一緒に誘って登城することにした。
犬山城は名古屋からだと名鉄を使って特急なら約25分で到着。犬山遊園駅から西にテクテク歩いていくと天守が小高い山の頂に見えてくる。

DSC00980.jpg

犬山城は北に流れる木曽川を背にして建てられている後ろ堅固の城である。南側の中門から天守に入る。麓には針綱神社がある。元日ということもあって賑わっていた。犬山城はこじんまりとしている。天守から南側には本丸を含めて5つの郭があったが、現状ではそれぞれも違う用途で使われていたりする。なんだか残念ではある。

DSC00986.jpg

DSC00990.jpg

本丸の手前でチケットを買って本丸に。本丸から天守はすぐ傍に見える。本丸も広くない。それでもこの犬山城の最大の見所は、木造天守である。廃藩置県で天守以外全てが取り壊されてしまった。天守は濃尾地震で半壊するものの、成瀬家が寄付を募って修繕して難を逃れた。その縁があって昭和、平成の大半の時期を成瀬家が犬山城を所有という珍しい形態になっていた。

DSC00997.jpg

DSC00993.jpg

そういえば、中学・高校の同級生の成瀬君は犬山の出。この成瀬家と何か関係があるのだろうか。(多分ある。)

DSC01020.jpg

続きを読む
posted by おかき at 08:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 国内旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月20日

松代城

松代城というよりも海津城という方がピンと来るかも知れない。武田信玄と上杉謙信が戦った川中島の戦いの中でも最も激戦だった、1561年の第4次川中島の戦いで武田信玄が本拠を構えた城である。その後、武田氏が滅亡すると、森氏が入るが本能寺の変以降はめまぐるしく城主が変わり、結局落ち着いたのは真田信之が入ってからだった。

IMG_2219.jpg

松代に行くとそうだが、松代藩の初代藩主という事もあり真田家でも信之は別格の存在である。真田家は関が原の戦いで家を二分して分かれた事でも有名であり、信之は徳川方、昌幸・幸村は石田方に付いた。結局歴史は徳川が勝つのだが、それでも世の中では幸村の軍神的な扱いとは対照的に、時代を生き抜き真田家の血筋を残した信之はちょっとばかし扱いが小さいのが悲しい。

さて松代藩の松代城であるが残っているのは非常に小さな城。松代城跡は二の丸、本丸しかない。当時は武田氏独特の三日月堀や丸馬出等があったが、現在では失われている。

IMG_2224.jpg

それにしても、レンズの大きさが風景を撮影するのにはまた合わない70mmというシロモノで、コンパクトデジカメの35mmに比べると寄りすぎていて、撮影したいものが入らない。自分のミスなのだが、あまりにも酷くて悲しくなった。

という訳で今回の松代城は何だか味気ないものになってしまいました。続きを読む
posted by おかき at 03:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 国内旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする